日生劇場で再演中、11月からは地方公演が始まるミュージカル「生きる」を観てきました。
あらすじや初演(2018年)の感想記事はコチラで
さて再演「生きる」。初演は市村さん・鹿賀さんそれぞれの出演回の、共演者の役どころが固定でしたが、今回はシャッフルになっておりまして。
初演では無かった、市村勘治×新納小説家、鹿賀勘治×小西小説家という組み合わせが上演されました。
わたくしは今回、新納さんの小説家を観られないのが残念。小説家を遼生さん固定で観ております。
再演ですごく違って感じたのは、鹿賀さん勘治。静かな「怒り」を感じます。
「怒り」は病気の理不尽さに、これまでの自分に、いつの間にか育ち上がって上からモノを言うようになった息子に、などなど。
誰にも恥じるところのない生き方をしているのに、どうして自分がこんな目に遭う?
ふつふつと静かに煮詰まる想いを昇華する糸口を求め、エネルギーあふれるトヨからヒントを得ようとする。その必死さは観ていて痛いほど。
そこからの「二度目の誕生日」が
もう。
もうね!!(泣
ここは市村さん勘治も同じなんだけど、「二度目の誕生日」の途中から、幸福度のものすごい高まりを感じるんです。
初演では確固たる決意は感じたけど、喜びまでは感じなかった。でも今回は幸せそうなの。
使命がわかった、光の差す場所がわかった!という希望。
直前までの必死さ、失望感からの脱却が、こちらの胸をゴンゴン打ちまくるのですわ!!
曲の途中で心情の変化があるのがミュージカルだといいますが、まさにそれ。
何度聴いても胸アツで泣いてしまうぅぅぅ(滂沱
市村さん勘治は大きく変わっていないものの、ひとつひとつがとても丁寧に感じます。
誰ともほとんど目を合わせないからこそ、要所要所でジッと見つめる様子に尋常でない迫力がある。
そもそも、元気で面白い市村さんが、あんなに「面白みのないひと」に見えること自体がもうスゴイよね~
そして相変わらず、おぼこい(笑)
夜の街を連れ回されても、何が起きてるのかまっったく分かってなくて、子どもが盛り場に連れて来られちゃったみたい。
市村さん勘治がウブに見える分、遼生小説家が悪いことを教えるイケナイ大人に見えます。
ここ私得ポイントです。(なんの解説)
遼生さん小説家は今回、熱が高く感じますね。なんか血行がいい感じ。
って伝わる?これ??(笑)
初っぱな、出てくるときの勢いも全然ちがうし。
初演はなんだか、明日死んでも構わねーよ、って生きてる人に見えたけど、再演版は生きることに執着があるように感じます。
そして「何が恥かを知ってる」人にも。だからこそ、どこにいても粗略に扱われないことに、説得力が増しました。
ところで小説家が書いてる三文小説って、どんなジャンルなのかしらね?
ヤクザの実録モノだったらちょっと笑うw
その取材でヤクザやチンピラに顔が利いてたりして。
助役とヤクザの密会場所・日時を知ることができたのも、チンピラに顔が利いたから?
いや、実は芸者に色仕掛けで聞き出したとかでもいいんですよ?
むしろそっちだと妄想しがいが ←
(余談ですが再演版あのシーンの音楽、いつも「ぜにがたへいじ・・・」って思う)
私ね、初演は、このお話自体が、「渡辺勘治の死後、小説家が書いた話」のように感じたのね。
勘治の生き方を見届け、それをルポか小説に書き起こして紹介しているかのように。
そしてひとかどの文筆家になりました、っていうのが、オープニングの歌詞
♪こんな俺を目覚めさせた だから今 ここにいる
の意味かなと。つまり「目覚めて小説家として成功した」みたいなニュアンスね。
でも今回はちょっと違って感じられる。
勘治の人生の、最後の半年に起きたことを私たちに見せてるのは同じ。
でもそれをそのまま書いてはいなくて、しかも書きたくもない三文小説も、やめたんじゃないのか。
小説家を辞めたとは思わないんだけど、やっつけでものを書くことを辞めたんじゃないか。
それが「目覚めた」ってことなのでは、と感じてます。
原作映画ではヤクザが勘治の鬼気迫る様子に気圧されて手を引きますが、アップの映像が使えない舞台では、説得力がちょっと足りない。
だから分かりやすく、小説家が弱みを握る展開にしてるのかなと思ってた。
でも今回はふとね、小説家の生い立ちはどうなんだろと考えちゃった。
勘治から息子とのブランコの想い出を聞いて、なぜ公園なのかが理解できた小説家が、その後すぐに当の息子の無理解を目にするでしょ。
ここの展開うまいよね~。
で、ここで小説家は、ひょっとしたら自分と、自分の親との関係を思い起こしたのかもしれない。
どう考えても、親が元気で良好な関係とは思えなくない?小説家さん。
親とわかり合えなかったとか、そもそも親がいなかったとか、いてもためにならない親だったとか。
ヤクザと助役を同時に敵に回すほどの決断をしたのは、たんに人情からだけでなく、自分を救う方法でもあったのかもしれない。
なんて思いました。
息子役が市原隼人さんから村井良大さんに変わり、息子の無理解ぶりもパワーアップしましたねw
市原さんの光男は取りすがるような感じもあったけど、良大くんの光男は・・・
もうね~ものッすごいムカつく!好き(笑)
父親のことを「真面目なだけのつまらない人間」と侮ってるように見える。戦後復興期の建築業で精力的に働いている自分と比べちゃうのかもね。
「何があったんですか」の聞き方がもう、違うんだもん。事情をたずねるというより、叱られることをした子どもに理由を聞いてるみたい。
無理解すぎるし、決めつけた言い方が腹立たしくて小説家がブチ切れるのもよくわかる。格闘は心配になるほど激しいしw
良大くんはここ数年、すごく上手くなったなぁと思ってたけど、これからさらに伸びそうですよね。
とよ・一枝をスイッチで演じてる唯月ふうかちゃん・May’nちゃんも、すごく変わりましたね~!
宮本亜門さんが、インスタライブで話されてましたが「初演は行儀が良すぎた」とのことで(笑)
まー弾けまくってる!
明るくて生命力に溢れてて、傍若無人な分、勘治のしつこさに辟易して冷たくなるのが凄くしっくりくる。
May’nちゃんは芝居が上手くなりましたね~。一枝の時がすごく違う。「良いとこからお嫁に来たお嬢」的な。
ふうかちゃんはとよの時、女子力が低下して(役柄の話よ)下町の少女っぽくなりました。それがすごくいいの~!
初演の方が良かったなと思う部分がないわけではない。コーラスは初演の方がキレイだったし、明瞭だったと思う。
意図があって変えてるのかもしれませんが、個人的な好みで言えば初演の方が好きでした。
「金の匂い」のダンスも、初演の方が迫力があったと思う。人数が減ってるのかな?
振り付けは激しくなってると思うんですけどね。
それと公園課長はヤッキーさん(安福毅さん)が良かったな~。林さんがダメってわけじゃなく、単に好みですけどね。
あと可知寛子さんが居ないの寂しい!
山西惇さんも歌がすごく上手くなってて、凄いなぁとしみじみ。なんだかんだ生き残る悪い助役さんステキでした!
あと佐藤誓さんも。声がすごく好きなので、もっと歌って欲しいわん。
誓さんといえばさ、初演の時も思ったんだけど、病院で「きっと胃がんだよ」的にいらんこと言うのが誓さんでしょ。
で、勘治の葬式で光男に「お父さんは病気を知ってたんですか」って聞くのも誓さん。
あれってすごいブラックジョークに感じませんか(笑)
今回も、再演の「生きる」を観て感じたことが色々あります。
「人は・私はどう生きるのが幸せなのか」
「満ち足りた人生とはどんなものか」
「人が生きた証は何に現れるのか」
とかね。
でもいちばん強く感じたのは、「理解しあいたい人とは、話せるうちに話しておきたい」ってことでした。
ラストシーンは、その示唆のように感じます。
絵画のように美しいラストシーンは、ファンタジーでしょう。小説家が前の晩に見た勘治の姿。
話し合わず理解し合えないままだった光男には、見ることができなかったはずの画です。
舞台上だから、観客が知っている勘治の「想い」が、あのシーンで光男にも瞬時に伝わる。
だからあそこでカタルシスが生まれて、映画版とは全く違う後味になるんですよね。
お芝居だからそれで伝わるけど、現実には話し合わないと伝わらないじゃないですか。
死んでしまったら、もう何をどうとも言えず、聞くこともできない。
小説家が話さなければ、光男は勘治の想いを知ることができません。
勘治はちゃんと話すべきでした。光男もちゃんと聞くべきだったんです。
生きているうちに。
なんでそんな風に感じたのかなってちょっと考えてましたが、やはりね、今年は才能も華もあり将来を嘱望されていた方々が亡くなったじゃないですか。
そのことも影響したのかなって。
単なるファンの私たちとは比べものにならないほど、周囲の方々はどんなにか苦悩されただろうと思います。
死なれてしまっては、もう何も聞けないんですよね。
いったい何が、あなたをそんなにも苛んでいたのか・・・
思い浮かぶことを問いかけて、「そうだ」とも「ちがう」とも聞くことができない。
今日と変わらない明日が必ず来て、今日聞けなかったことも明日以降、いつか聞けるに違いない。
そんな風に先送りにせず、どんどん話し合いたい。そう感じています。
観るたびに胸が熱くなって、悲しいのに満ち足りた気持ちになる希有なミュージカルだと感じます。
地方公演はこれから。大千穐楽まで無事に上演されますように。
そして繰り返し、再演されるよう祈ります!
コメント